遅いお昼ごはん…2023年10月05日 08:08

所用で名古屋2泊、ちょいと岡崎寄り道し、翌16日(土)に富山に戻りました。
名古屋を出発したタイミングが悪く、帰りの東海北陸道は三連休初日でえらい混んでました。
お昼ごはんを定番のひるがの高原SAで、と思ったのですが…な、なんとSAに導入路手前から車の列です(O_O;
で、ここでの昼食は断念…

で、相棒と相談して行き着いたのが高速降りた、南砺市福光にあるちょいと変わったラーメン屋「麺屋ひろまる」です。
メニューは様々♪


私がチョイスしたのは…これ「家系ラーメン」!


美味しい!

ここのラーメン屋さん、めちゃ変わっています。
TVでも紹介され、味も美味しいし流行っています。
この時間帯でも外に列が…(^^;

興味ある方はHP(ここをクリック)を訪れてみてください。
たぶん間違いなく行ってみたくなると思いますよ(^_-)

ちなみに。相棒はちゃっかり食後のソフトクリームを頼んでいました(^^;


二の丸周辺で…@岡崎公園2023年10月04日 08:15

さて…帰りの時間も迫ってきました…まだ見たいところもあったのですが、今回はここまで!
駐車場まで帰りましょう…と、歩き始めた矢先、相棒がお土産屋さんを見つけてまっしぐら!(^^;
あら~σ(^_^)は…その時間を利用して二の丸広場をチラ見です(^^;ゞ


写っている建物が「どうする家康・岡崎大河ドラマ館(三河武士のやかた家康館)」ですが、遠目に見ただけです。
今から思えば、すぐ近くに能楽堂や本多平八郎忠勝公銅像、しかみ像もあり、もっと時間的に余裕をもって見てくるべきでした(^^ゞ

さて…そろそろ帰らないと…と思っていても、相棒がなかなかお土産屋さんから出てきません(^^;
じゃぁ呼びに行くかと中に入って目に入ったのがこれ!


おぉ!徳川家康と書いた大吟醸がずらりと並んでいます♪
ん~ン…お土産に買って帰るか…と値段を見ると…3,850円也!

このお酒、岡崎にある創業331年の老舗酒蔵、石丸醸造が醸した大吟醸なのですが、ふとこの酒蔵の名前を思い出しました。
以前に飲んだことがある「二兎」という銘柄の日本酒の醸造元なんです。
飲んだことがあるのは「二兎」純米大吟醸でしたが、なかなか美味しいお酒だったので覚えていました(^.^)

しかし、結構高いなぁ…と眺めていると…買い物を終えた相棒が「さっ!帰るよ!」と…(^^;
結局買えずじまいで、した(^^;ゞ
チャンスがあればこの「徳川家康」飲んでみたいものです。

これにて岡崎のショート観光編を終えますが、家康ゆかりの地は数多くあるので、またゆっくり訪れてみたいと思います。

若き日の松平元康像と徳川家康公銅像@岡崎公園2023年10月03日 09:27

時間があればもっと公園内を廻っていけばよかったのですが、持仏堂曲輪を廻って最後に徳川家康公銅像を拝みに行きました。
その近くで見かけた像がこれです…


この時はこの像が誰の像なのか分からなかったのですが、後で調べてみるとなんと若き家康、松平元康の騎馬像だったのです。

この松平元康像は1992年に開催された「家康公生誕450年祭」の一環として設置されたそうです。
若き元康の騎馬像は城を背にし、日光東照宮の方角を向いているそうです。
背景の石垣と滝は治世を象徴し、 元康が胸に秘めた国盗りの夢が、 生誕の地、 岡崎の土中から盛り上が
る様を表しているそうです。

この松平元康像のすぐ近くに徳川家康公の銅像がありました。


岡崎城の天守閣は木々に隠れて屋根の一部しか見えません(^^;
この銅像は1965年「家康公350年祭(没350年)」を記念して建てられたものだそうです。

ちなみに、家康は、天文11年(1542年)12月26日岡崎公園内二の丸か
ら坂谷曲輪(能楽堂裏)にあった屋敷で生まれたそうです。

清海堀越しに見上げる岡崎城天守閣2023年10月02日 07:22

時間があったら天守閣に入って歴史資料を見、天守からの眺めを楽しみたかったのですが、名古屋に帰らなければならない用事もあり、天守閣の前で眺めて帰路に就くことに…

折角なので、ぐるっと本丸を廻り込み、天守閣の北面防御の清海堀越しにもう一度天守閣を見上げました。


ここに清海掘を越えて天守閣に直結する石造のアーチ橋がありました。


この橋、「廊下橋」と案内板があったのですが、この橋の存在意味はなんだろうか?と疑問に…

ちょいと調べてみると…

岡崎城古地図には木造の屋根付きの渡り廊下が画かれてたそうです。
渡り廊下だから「廊下橋」なんですね(^.^)
明治時代に土橋、大正時代に石橋に架け替えられたそうです。
この廊下、本丸北側の持仏堂曲輪から天守に直ぐ入れる屋根付きの廊下橋で、他の城郭の廊下橋と同様二の丸御殿から城主が天守へ、城主の姿を周りに見せない専用の廊下ともいわれているそうです。
一説には、いよいよ落城という時、天守に火を放ち廊下橋を渡り持仏堂曲輪のお堂にて自害する・・・とも(^^;

岡崎城本丸 天守閣2023年10月01日 09:00

これが岡崎城の天守閣です。
明治の廃城令で取り壊され、昭和34年にほぼ昔どおりの外観に復元されたそうですが、高さ28m、鉄筋コンクリート3層5階のとても美しい姿を魅せてくれています。

この天守閣の前に二つの石碑が建っています。


 横長の石碑は「家康公遺言碑」
 縦長の石碑は「東照公遺訓碑」
です。

石碑に架かれている内容は以下の通りで、ともに有名なものです。

「家康公遺言碑」


わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、天下のこと心安し、
されども将軍の政道その理にかなわず、億兆の民艱難(かんなん)することもあらんには、たれにても其の任に変らるべし、
天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四悔安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかも、うらみに思ふことなし
元和2(1616)年4月17日 家康公甍75歳於駿府城

元和2年4月17日は、家康の亡くなった日ですから、遺書みたいにあらかじめ書いたものではなく、本当に最後の言葉だったのでしょう…

訳意は…

私の命はそろそろ尽きてしまうのだが、将軍が、ちゃんとしていれば、私は安心して死ねる。
もし、将軍の政道がその理にかなわず、民衆が苦労していることがあったら、他の人に変わってもらうべきである、たとえ、政権が他家に移ったとしても、民衆が幸せならば、それが私の本意であり、恨みに思うことはない。

「東照公遺訓碑」


人の一生は重荷を負(おい)て遠き道を行くがごとし。
いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、こころに望(のぞみ)おこらば困窮(こんきゅう)したる時を思いだすべし。
堪忍(かんにん)は無事長久(ぶじちょうきゅう)の基(もとい)、怒りは敵とおもえ、勝事(かつこと)ばかり知りて、ま(負)くることしらざれば害(がい)其(その)身(み)にいたる。
おのれを責(せめ)て人をせむるな、及ばざるは過(すぎ)たるよりまされり。
慶長8年正月15日

家康が征夷大将軍に命じられたときに遺訓を書いたといわれています。

訳意は…

人の一生は重い荷物を背負って遠い道をゆくようなものである。
急いではならない。
不自由を常と思えば不足もない。
心に望みが起きれば困窮した時を思い出せ。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
勝つことばかり知り、負けることを知らなければ害がその身にいたる。
おのれを責めて人をせめるな。及ばざるは過ぎたるよりまさる。

礎石には万年の亀を置き、碑頭には龍城(岡崎城の井戸に龍が住み、家康生誕の際にも龍が現れたという伝承があり、龍城と呼ばれています)を象徴する龍を配しています。

岡崎城本丸 龍城神社2023年09月30日 05:07

隠居曲輪から清海掘縁に登り本丸に入ってきました。
本丸には天守閣の隣に龍城(たつき)神社が鎮座しています。


何故天守閣の隣にこのような立派な神社があるのか…
それは岡崎城の築城の経緯とこの城で生まれた家康、それとあの本多忠勝に関係があるようです。

龍城神社の社伝によると、1452年(宝徳4年)または1455年(康正元年)に三河国守護代・西郷稠頼が  菅生川に突き出た竜頭山という小高い丘に築城した際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させて天に去っていたという言い伝えから天守に龍神を祀ったことが始まりとされています。
1524年(大永4年)家康の祖父にあたる松平清康が安城から本拠をこの岡崎城に移し、1543年(天文12年)ここで家康が生まれました。
その家康誕生の際にも金色の龍が現れたという言い伝えがあるそうです…
家康没後、徳川家康を祭神として東照宮を岡崎城天守に祀ったのですが、1876年(明治9年)東照宮を今の位置に遷座し、幕末の岡崎城最後の城主であった本多氏の祖、忠勝が祀られていた映世神社と合祀して今の龍城神社に改称されたそうです。

空堀越しに見る岡崎城天守2023年09月29日 07:29

隠居曲輪から坂を登っていくと、深い空堀越しに木々の間から天守閣が見えてきました♪
美しい天守閣です。


その北側に深く切り落ちた濠は空堀で、創築者西郷頼嗣(清海入道)の名から清海堀と呼ばれており、本丸北面防衛のために設けられたそうです。

ここ岡崎城は東海地方では指折りの大規模な城だったそうです。
が、明治になり新しい時代に不用とされた城郭は1873年(明治6年)の廃城令によって大部分は明治6年から7年にかけて取り壊されてしまったそうです。
その後は堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりだったそうですが、岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いで、昭和34年(1959)にほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元されたそうです。

岡崎城へ・・・2023年09月28日 08:12

東に八丁(約870m)…ほんの少し離れて国道1号線沿いに岡崎城がありました。 とはいっても大手門近くの駐車場が何故か進入禁止になっていたので、ぐるっと回って東の端、菅生曲輪(多目的広場)の横にある駐車場まで行かなければなりませんでした。
駐車場からほどなく歩いたところに公園の案内版があったので紹介します…
車はこの案内板の左端にあり、案内板の位置が中央左の▼印のところです。


この案内板を見ると、かつての岡崎城の城域は今の公園規模の2,3倍はあったようです。 現在は1,2重のお濠しか残っていませんが、かつては菅生川から水を牽いて4,5重のお濠が貼り巡ぐらされていたようです(あ案内板の濃いグレーがかつてのお濠のようです)。 なんでも、発掘によって日本で有数の規模の大きさだったと分かってきたようです。 さすが家康生誕の地、大事にされていたことが分かりますね。
さて、案内板から右側(西側)に進むと…ここが隠居曲輪というところです。

いや~想像以上に岡崎城は立派な構えですね。 ここから右側へ本丸に向かって登っていきます…
ちょっと勝手口から入っていく感じかなぁ(^^ゞ

本来の正面入り口、大手門は案内板の中央下にあります。

岡崎と言えば…2023年09月27日 07:49

さて、次の目的地は岡崎城です…が、お腹が減ってきました(^^ゞ そこで、何を食べる?と連れと相談した結果… 「岡崎と言えば八丁味噌!八丁味噌と言えば…味噌煮込みうどん!味噌カツ!…」(^.^) 「ついでに八丁味噌も買って帰りたい♪」 と、本場の老舗“カクキュー八丁味噌”に行きました。

ここのレストランで…連れは…これ!味噌煮込みうどんです♪


ところで、名古屋の名物味噌カツですが、ここ岡崎は八丁味噌の本場です! 揚げたてのカツに八丁味噌ベースのタレが…♪ σ(^_^)はこれをチョイスしました(^_-)

豚肉と味噌の風味が合わさってめちゃ美味しいですね(^.^) 八丁味噌の味噌汁もGood!です♪

美味しく食べ終えて…お土産の八丁味噌もGetです♪ ちょうどカクキューの工場見学時間になったのですが、まだ岡崎城も見たいけれど残り時間が足りず、工場見学は断念(^^; 早々に岡崎城へ移動です… さてその前に…カクキューのHPから八丁味噌の由来をupしておきたいと思います… ーーーーーー 八丁味噌のはじまり  当社カクキューの創業は江戸時代初期ですが、その歴史は戦国時代まで遡ります。  今川義元の家臣であった早川家の先祖・早川新六郎勝久(はやかわしんろくろうかつひさ)は、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで今川が敗れた後、岡崎の寺へと逃れて武士をやめ、名を久右衛門(きゅうえもん)と改めました。  久右衛門は寺で味噌造りを学び、数代の後、徳川家康公生誕の岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離にある八丁村(現在の愛知県岡崎市八丁町)へと移り、正保2(1645)年に業として味噌造りを始めました。そして久右衛門の造る味噌は地名に由来して、いつしか「八丁味噌」と呼ばれるようになりました。 ーーーーー 桶狭間の戦いまで遡るのですね…

では、引き続き岡崎城へ…

もう一度…総門から見る岡崎城@岡崎・大樹寺2023年09月26日 08:44

大樹寺に別れを告げ岡崎市内に向かう時、もう一度総門から岡崎城へのビスタラインを見てみました…

くっきりスッキリ岡崎城が見えますね♪
この総門は寛永18年(1641)徳川三代将軍家光によって造り直されたそうで、直近昭和52年に修復されています。 永禄3年(1560)、松平元康(徳川家康)が桶狭間の戦いから大樹寺に逃げ込んだ時、追撃の織田軍に包囲された際に祖洞和尚が総門のかんぬきを振り回して戦ったという話は有名です。 このシーンもNHK大河ドラマ「どうする家康」で出ていましたね。 ちなみに、祖洞和尚が振り回した総門のかんぬきは今も残っているそうです。

ところで、三門から総門の間…子供たちが走っているのが見えますね… 実はここ岡崎市立大樹寺小学校のグラウンドなんです(^.^)