北海道旅行 三日目(トラピスト大修道院 その1)2022年07月15日 06:36

さて、五稜郭に別れを告げ、次の目的地「トラピスト修道院」に向かいました。

かつては、今朝行ったトラピスチヌ修道院と今から行くトラピスト修道院がごっちゃになっていました。
いつの頃だったか男子修道院がトラピスト修道院で、女子修道院がトラピスチヌ修道院であるとようやく認識したものでした。
先にも書いたように、45年程前の学生時代に訪れたのは間違いなくトラピスチヌ修道院であったことを今回確認しましたが、これから訪れるトラピスト修道院はやはり記憶にありません…
初めての訪問かもしれないので楽しみです♪

五稜郭から約25㎞、“日本海追分ソーランライン”という海沿いの道を約40分足らず走り、道南いさりび鉄道の渡島当別駅を過ぎたところで右折、山の方に入っていきます…
坂を登りきると平坦になり・・・見えてくるのが真~っすぐ伸びる美しい杉並木です♪
目を凝らすと…ず~っと先…杉並木の途切れる先に霞んだ大きな建物が見えます…そこがトラピスト修道院です♪

この杉並木を進むと…右手に駐車場があり、
カトリック当別教会(右側)、修道院直売所(中央)、トイレ(左側)がありました。

駐車場の一角に掲げられている案内板には周辺の絵地図とこの修道院の歴史などが書いてありました。。
案内板に書いてある文章をそのまま書き出すと・・・

「厳律シトー会 灯台の聖母大修道院

 明治29年(1896年)、「祈祷と労働とをもって直接、神に奉仕し、自己の成聖と社会の幸福」を目的とし、日本で最初の男子修道院であるこの修道院が建てられた。最初の建物は白ペンキ塗り細長い木造建築であった。修道院からは日に何度も鐘の音が流れてくることから、村民たちは修道院のことを「ガンガン寺」と呼んでいた。当初の修道士はフランス人5名、オランダ人2名、カナダ人とイタリア人書く1名の9名であった。創立当時は荒地であったこの地を開拓し、農耕・牧畜・酪農に力を入れた。明治35年(1902年)にオランダからホルスタインの種牛を輸入し、増殖した乳牛はのちに南北海道一帯に広がっていった。南北海道の酪農の原点ともいえる。
 現在の建物は最初の修道院が明治36年(1903年)に焼失したため、明治41年(1908年)に建てられたものである。この時に使われたレンガは野幌で作られて運ばれていたが、輸送が間に合わなくなった。そのため現地生産となり、現在の石別中学校が建っているところから良質の粘土がとれたため、煉瓦を作ったと伝えられている。」

「岡田普理衛(D.シュラール・プゥイエ)

 初代修院長。安政6年(1859年)にフランスのノルマンディー県にて出生し、哲学・物理・科学を学んだ後、大神学校で神学を修めた。その後自ら志願して明治30年(1897年)に日本に渡来した。明治33年(1900年)日本人信者であった大工の岡田初太郎の養子となり、岡田普理衛に改名する。
 性格は喜怒哀楽を表に出さないが豪快であり、質実剛健で行動力が盛んで、トラピスト修道院での労働も頑丈な体で二人分の仕事をこなしたと言われている。地元の人々は「見慣れない外国人が重罪人ではないか」と最初は噂し修道院の作物を荒らしたりしたが、岡田普理衛は病人の介護方法を教えたり相談に乗ったりと徐々に地元の人々からの信頼を得て、親しまれるようになった。
 大正14年(1925年)には福岡県にトラピスト分院を設立するため、現地に出向し、昭和20年(1945年)この修道院に帰ってきた。そして昭和22年(1947年)7月1日に87歳で死去した。」

これを読むと、まさに未開地を切り開いて今の楽園のような美しい地に替えていったのですねぇ…

それでは、最後の坂道は歩いて登り、修道院まで行きましょう!
ひゃ~ぁぁ!これがなかなか急こう配で厳しい坂なんです!
体力のなさをひしひしと感じながら…ヒィヒィ(^^;

つづく…

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